『身体巡礼』養老孟司著 感想

『身体巡礼』養老孟司

読書の楽しみの一つには、自分が知らないことを知る、ということがある。
文化、習俗、技術、思想、歴史、世界。どんなものであれ、自分が知らないことを知ることは程度の差こそあれ、興味が湧くし面白みを感じる。
勿論、物語も好きで、ファンタジーもSFもミステリーも時代物もみんな好きで、時には詩集も読むしライトノベルも厭わない。それらは物語としての面白さを味あわせてくれるだけでなく、時に予期せずしていろんな知識を授けてくれたりもするからである。
なので、非現実的なお話であろうが、普通にどこにでも転がってる恋愛ものであれ、学術的な話であれ、本であれば何かしらは楽しいし、その楽しみの一つとして、知る楽しみがあるとそう思うのだ。

長い前置きはそれくらいにして、今回は骨の話であり、心臓の話である。
ヨーロッパを巡り、それらについて考察するというものだ。
著者は、『バカの壁』で時の人となった養老孟司氏。勿論、氏の存在は『バカの壁』以前から知ってはいたが、『バカの壁』のあまりの馬鹿馬鹿しさに呆れてしまったので、放置していた。しかし、今回たまたま縁あって本書を手にとってみたが。これがなかなか興味深い。また、知らないことが多く、いたく知的好奇心を刺激された。

まず、ヨーロッパ、わけてもキリスト教的王侯貴族の世界では、死体をそのまま葬ることはなく、死体を埋葬する際に、心臓を取り出して壺に収め、別の寺院に葬る。時には、ハプスブルク家のように、死体、心臓、心臓以外の内臓を別々に安置するという事を歴代の家族が延々と行うという事例が標準的に行われているというのだ。
僕は全然知らなかった。
キリスト教徒が宗教的理由もあって、土葬にすることは知っていたが、逆にだからこそその死体から心臓を取り出して保管するとのに違和感を覚えたし、そうした風習はエジプトの王家の専売特許のようなものだと思っていた。
しかし、実際にそういうことが行われており、キリスト教の教義の中では17世紀以降には心臓信仰というべきものが本流の一つとしてあるようになったそうである。獅子心王のリチャードやルイ一世などもそうであるし、日本にある聖心女子のような聖心という言葉も、本来の語義からすると聖なる心臓という意味であり、心ではなく心臓だということでここも驚きだった。
尤も、心臓=心の座という概念は古くからキリスト教徒にあり文献でも日本同様に心というときに、神経、気持、ハートの強さといったメンタルなハートと、臓器としてのハートがニアリーイコールのような関係になるそうではある。
物理的には心はどこに宿るのか、魂はどこに宿るのか、脳か心臓か? このあたりも突き詰めていくと面白いテーマだが、今回の感想からは除外して先に進める。

また、骨についても色々新しく知ったことが多かった。カタコンベと言われる骨でできた装飾部屋や、これまたキリスト教には、大聖堂のようなものを骨だけで作り上げたものが存在するのは皆さんもご承知のことと思う。
日本人的な感覚としては、壁一面が骨でできてたり、椅子や机やシャンデリアが人骨で組み上げられていたら、恐ろしくて仕方がないが、あちらでは割合と普通にそういうものがある。メメントモリというのだそうだが、これの裏話が出てくる。
曰く、フランスをはじめ欧州でここにその土地のぺーハーが絡んでいるというのだ。あちらの土地は石灰岩が多く含まれておりアルカリ性の土地で、死体を埋葬しても骨がいつまでたっても溶けてなくならない。なので、墓地はすぐに骨でいっぱいになるので定期的に取り出しては、より地下の深いところに埋めなおしたり、こうしたカタコンベのようなものに再利用したというのだ。
これに対して、例えば日本は火山性で酸性の土地が多く、骨が残らない。それが為に石器は出るが骨が出るところは土壌成分の関係で限られており、石器時代の人の様子がわからない等ということもあるそうだ。
つまりは、骨の文化は土壌成分にもよる所も大きいのだろうというのだが、このあたりも初めて知る身としては極めて面白かった。

まぁ、こうしてつらつらと書いてみたが、自分が単に物知らずであるだけで、こんなことは常識かも知れないのだが、個人的には知らない事を知れて非常に面白く感じた次第。

 

 

身体巡礼: ドイツ・オーストリア・チェコ編 (新潮文庫)

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